日本人自身の問題として考える「靖国」(2)~戦争の惨劇を防げなかった政治家の責任

2005-6-29

靖国の問題については、良く、日中韓の死生観の違いが話題になる。

靖国について答弁する小泉総理

小泉総理は、「A級戦犯は、政府も『犯罪者』として認めている。ただ、日本には死者にむち打つ感情はない。」と述べている。

私も、さすがに、もしも親を殺す者がいたら、その墓参りをする気にはなれないが、死後に、その墓をあばいてまで復讐をしようという気持ちもない。

ただ、その日本人の死生観をもってしても、その死後も、歴史によって裁かれなければならない人種があるはずだ。

それこそが、「政治家」ではないか。ドイツの政治哲学者マックスウェーバーは、(意図や意思の如何を問わず)「政治家は、結果に責任を負わなければならない」と説いている。
また最近では、中曽根康弘元総理も、その著書で、政治家は「歴史法廷の被告」と述べておられる。

私は、先の大戦の期間、少なくとも、閣僚として国を指導した政治家(軍人出身を含む。)たちには、酷なようだが、死してなお、
○近隣諸国及びわが国の国民に塗炭の苦しみを味あわせた責任
○わが国の将兵を、ある意味で犬死にさせた責任
○既に戦争当事国であったドイツとの軍事同盟に踏み切るなど、集団自殺のような無謀な戦争に、わが国を導いた責任
○閣僚として、天皇陛下を十分に輔弼できなかった責任

などがあると考えている。

このような結果責任は、歴史の中で、免責されることはない。

政治家の結果責任を説いたマックスウェーバー

サンフランシスコ講和条約で、わが国がその判決結果を受け入れているといっても、極東裁判自体は、国際法上の問題も多い。

ただ、運のなさ故か、力のなさ故か、結果として戦争の悲惨を招いた当時の政治家の責任は、戦勝国が裁いた極東裁判とは別にあるはずだ。
これは日本人自身が考えるべき問題。

個人的には、もしも私が負け戦の時の閣僚で、国に殉じた者として祀って頂くという誘いがあったら、黄泉の国から、固辞の意思を伝えたい。なぜなら、国民や陛下に対して恥ずかしい。

しかし、現実に彼ら(当時の閣僚級で合祀されている方には、A級戦犯以外の方もいる。)も合祀されている以上、今、政治の側が、分祀しろと言うのは、憲法の政教分離に原則に明らかに反する。

ただ、だからといって、参拝すべきでないとも言い切れない。
やはり、かつて赤紙一枚で召集された多くの英霊(庶民)が、国に殉じるとき、靖国で再び遭うことを信じ、後世の人たちに「靖国にお参りして欲しい」と願いながら、その貴い命をなくしていったということも大切にしなければならないからだ。

私自身は、靖国への参拝は、基本的には個人の判断と考える。行けと言われて行くものでもないし、行くなといわれてやめるものではない。

ただ、私だったら、政治家の立場として、まず、

○先の大戦時の閣僚以上の政治家は、その意図はどうあれ、結果として、国民や陛下に対する責任を果たすことができず、諸外国にも苦しみを味あわせた。だから、明らかに、政治家としては失格だった。そして、同じ政治家として、酷なようだが、彼らを奉賛し、哀悼の誠を捧げる気持ちは一切ない。政治家とは、それだけ厳しいものだ。

位の説明はすると思う。

そしてその上で、もしも靖国を参拝する場合には、

靖国神社~庶民の思いを大切にしたい

○しかし、家族への思いを断ち切れず、ともに靖国で遭うことを信じながら、殉じていった250万英霊に対して伝えなければならないことがある。我々現在の政治家は、かつての政治家のように、無謀な侵略の戦場に国民を駆り立てることを、2度としない。「何故俺がここで死ななければならないのだろう」という悲惨な思いを2度とさせない。政治家の責任として、このような誓いを英霊に伝えなければと思う。

といった説明を加えることになると思う。
要は、国際社会に対し、わが国は、国民自身の問題として、先の大戦をしっかり総括していることを示すとともに、わが国の平和主義がゆるぎないものであることを理解してもらうことが大切だ。

極東裁判を違法と断ずるのもいい。中国の要求を理不尽と決めつけるのもいい。でもそんな単純思考だけで本当にいいのか?

勿論私も、先のコラムで述べたように、最近の中国の要求には、首をかしげる一人(例えば、かつての瀋陽総領事館事件時の中国側の問題については、政策レポートに、私の大使館勤務時の亡命事件処理を題材とした体験的レポートをアップしている。
しかし、靖国の問題は、先の大戦の総括の問題とともに、日本人自身の問題として考えなければならないと思う。