「決められない政治」~国民投票法施行でも置き去りにされた憲法論議
2010-5-18
平成22年5月18日、いわゆる「憲法改正国民投票法」が、憲法改正手続部分も含めて、形式的には、全面施行されることになった。この法律は、3年前の平成19年5月14日、参議院本会議で可決・成立したものだ。
ご案内のように、現行憲法は、憲法改正のためには、両院の3分の2以上の多数をもって国会が発議し、これを国民投票に付するという規定があるが、現行憲法施行後63年、憲法改正国民投票手続きを定める法律は作られてこなかった。
これは、国会の怠慢でもある。
このよう状態を解消し、憲法を国民の手に取り戻すため、議員立法として提案されたのが、憲法改正国民投票法であり、私も、4人の提出者の1人として、自らの言葉で答弁に立ち、当時、相当な精力を傾注したことを憶えている。私自身は、個人的には憲法改正論者であるが、国民投票法を作ることで、改憲・護憲のいずれかの立場を有利にしようと言う意図はなかった。
それよりも、21世紀の国際社会の荒波の中で、国民が、自国の将来像を主体的に決めることができないでいる国は、早晩滅びてしまうという危機感から、法律作りに携わらせていただいた。
憲法は、他の法律と違い、国会でなく、国民が決定する。
だから私は、憲法は何かと問われれば、「国民の、国造りへの決意である」と答えるようにしている。
そして、国民が、その決意を表現する手段を持ち、「明日のわが国の姿を決めるのは我々だ」という主体的意識を持つことが、わが国の生き残りのためには必要だと思う。
だからこそ私は、憲法改正国民投票法を成立させることが必須と考えた。
しかし、憲法改正国民投票法は、形式的には全面施行されたが、実質的には、全く動かない状態が続いており、国会での憲法論議は、ヤミに葬り去られようとしている。
すなわち、平成19年5月18日、憲法改正国民投票法のうち、国会における憲法審査会関連規定が施行され、憲法審査会が設置されることになった。
この憲法審査会では、平成12年両院に設けられた憲法調査会、平成17年やはり両院に設けられた憲法調査特別委員会における議論を踏まえ、より深みのある憲法論議が尽くされるはずだった。
しかも、この憲法審査会は、すぐに改正案を議論する性質のものではなく、まずは、現行憲法の良い点、悪い点を洗い出す存在として位置づけられていた。
このように、憲法審査会は、「まず改憲ありき」の機関ではなかった。
ところが、平成19年夏の参院選で民主党が大勝、社民党などを加えれば参議院の過半数を握ることとなった。
特に、社民党は、憲法改正の可能性があるならば、国会において、一切の憲法論議は不要で、憲法審査会の設置にも反対という立場だ。
そして、民主党も国会対策の必要から社民党に同調、我々が、何度となく、憲法審査会の構成を本会議で議決しようと水を向けても、議決には応じず、結局、今に至るまで、両院の憲法審査会は開催されず終いとなってしまった。
加えて、憲法審査会に関する規定が施行された後、憲法審査会で議論することとなっていた成人年齢や選挙権年齢の引き下げの問題も、当然のことながら、国会での議論すら行われず、今日に至っている。
今の国会の状況は、そもそも憲法論議の受け皿がないわけだ。
これは、憲法の制定経緯や諸外国の憲法典等について多面的な研究を行っていた憲法調査会時代(平成12~17年)、国民投票法制について外国法制等も含め多面的な研究と制度立案を行っていた憲法調査特別委員会時代(平成17~19年)よりも、国会の憲法への関わりという面で、明らかに後退している。
しかも、後退しているだけでなく、一部の政権実力者により、憲法解釈が勝手に変えられる危険性が高まっているように私には思える。
すなわち、現民主党政権は、論理的整合性を重んじる内閣法制局に憲法解釈はさせない意向らしい。
だとすると、多分現行憲法の解釈は、政権の最高実力者が、密室の中で一手に握ることになるのだろう。
だから、社民党や共産党の意図とは別に、安全保障問題などで大幅な解釈改憲が行われる可能性も否定できない。
現に、国連決議があれば、自衛隊が、戦場での治安維持活動に当たることができると発言した民主党の実力者もいたではないか。
そんなことをさせないためにも、本来は、国会に、憲法についてしっかりとした調査を行う機関があり、オープンな場で、政権の憲法解釈の妥当性についても研究することが大切なのだが、現在、そのような歯止めはない。
これでは日本が危ない。
実は、民主党議員の中にも、個人として意見を聴かれれば、オープンな議論を行い、憲法改正を「政治信条」としていると答える方が多いことを、私は知っている。
特に、保守系の人々が集まる会合では、彼らは、「実は私はガチガチの憲法改正論者」などと発言してみせたりする。
でもこのような民主党議員も、国会における投票行動では、党の意向に従い、憲法審査会の設置に反対を貫き、憲法論議をストップさせようとする。
まあ、言っていることとやっていることの食い違いの典型だ。
そしてその筆頭が鳩山総理自身で、鳩山氏は、かつて、自らの「憲法改正試案」を公にし、最も先鋭的に、憲法論議をリードしていた時期もあった位だ。
その鳩山総理が代表を務める民主党が、国会での憲法論議の貧困を主導し、憲法についてのオープンな議論を阻害している。
こんな政治家として一貫性のない姿勢で、私は、よく良心の呵責を感じないのかなとずっと疑問に思ってきたが、最近の軽い言動を見るにつけ、「マア、そういうヒトだったんだ」と、妙に納得してしまう今日この頃だ。
代表が「そういうヒト」ならば、その配下も推して知るべしなのだろう。
しかし、笑い事ではなく、「そういうヒト」たちを指導者とし、「決められない政治」が続く今の日本に暮らす国民が可愛想だ。
やはり、憲法を、そして政治を、国民の手に取り戻すために、我々は、怒りの声を上げていかなければならない。