若い力で新生自民党を創ろう~今こそ「面子」や「思い込み」にオサラバを
2005-8-7
今日は、憲法の話を枕に、新生自民党を創る決意を書こう。
永田町ではすさまじい解散風が吹いている。
ただ、前々から頼まれていた自民党福島県連での憲法についての講演だ。断るわけにはいかない。
ホテルの会場には、約300人の聴衆。約1時間「戦後教育世代が語る憲法改正」と題して話す。
そもそも、衆議院の当選1期生が、党本部派遣講師として他の県連で講演するのは異例のことだ。
もともとは、昨年の5月号の「月刊自由民主」に書いた私の論文や、民間憲法臨調のパネリストとしての私の発言が面白いということで、去年の6月、山梨県連に招かれたのが始まり。
これが好評で、その後、昨年秋の埼玉県連、今度の福島県連と、声がかかるようになった。
そして、それぞれの場で、私は、従来の方々とは、ひと味違った、「精神論」ではない「中身」の憲法論議を展開している。その1つは、もうそろそろ、「戦前」という「しがらみ」、あるいは、「押しつけ論」という「面子」から離れた憲法論議を展開すべきということ。
従来、「戦前にノスタルジーを感じるヒト」が「改憲」を、「戦前を嫌悪するヒト」が「護憲」を主張していた観があった。
だから、憲法については、全面的に改正するか、一言一句変えないかという硬直的選択肢しか出てこない。
でも、日本国民は、もうすでに60年間、今の憲法とつきあってきた。
客観的に考えれば、今の憲法には、良いところもあるし悪いところもあるわけで、「今の憲法の問題点は具体的にどこにあるか」ということを、国民に分かりやすく説明していくことが大切だ。
その2つは、このような目で見ると、現行憲法が「平和憲法」であるというのは、日本人の「思いこみ」に過ぎないということ。
そもそも9条1項の「戦争の放棄」の条項は、日本独自のものではない。これが、1928年のパリ不戦条約や、これを引き継いだ国連憲章の翻案であることは良く知られている。
9条1項と同じ趣旨が規定されている国連憲章は、勿論米国も批准している。だから、条約と憲法の違いこそあれ、9条1項は、わが国が、『今の米国と同じ程度に平和的な国家』であること宣言しているに過ぎない。
さらに9条2項。「自衛隊」を「合憲」とする以上、「自衛隊は戦力に当たらない」と解釈するか、「9条2項は、芦田修正により、自衛のための戦力を否定していない」と解するしかない。
ただ、そのいずれの解釈をとったとしても、憲法は、自衛隊の装備や活動の限界を定めていないことになる。だから核武装もできる。
このような思いこみを排し、わが国が、国際社会の中で、これからも「平和国家」としての価値を発信できるようにするためにはどのような憲法が必要か、我々国民は真剣に考えていくべきだ。
その3つは、現行憲法が人権憲法であるというのもやはり勝手な「思いこみ」で、実は、他人に対する人権侵害には極めて無頓着、世界的にも、わが国が人権侵害大国と評されている事実があるということ。
講演でも、実はGHQが示した英文案の方が、「他人の人権を侵害しない限り権利の行使が許される」という趣旨がより明確だったにもかかわらず、日本側の消化不良もあって「修正」がなされ、そこらへんの趣旨があいまいになってしまった事情を語った。
この日の講演は、幸い大変反応がよく、憲法については、今まで「精神論」は聞いてきたが、初めて「何故今の憲法ではだめだ」という「中身の話」を聞いたという感想が寄せられた。
翻って、いよいよ明日は郵政民営化法案の参院採決。
私は、郵政民営化は、郵便局ネットワークを守る前提で必要という立場だ。
しかし、党内での議論が、「何故今のままではダメか」という「中身」の議論でなく、「面子」、「思いこみ」や「意地」といった「精神論」ばかりとなってしまったことに、正直、寂しさと憤りを感じている。
内外に問題が山積する中、私は、今の日本をリードできるのは、そうはいっても、自民党しかないと考えている。
でも、今のような状況ではダメだ。
ここはもう若手の力で、新しい自民党を作り、怨念の抗争や意地と面子の張り合い、思いこみの世界からオサラバすることが必要だ。
そうでなければ、憲法改正などと言う大改革ができようはずもない。
私は、大きな政策について、虚心坦懐に中身の議論を行うことができ、かつ、これからの大改革に耐えられるような自民党を創るために、全力を尽くしていくつもりだ。
それにしても、夏祭りから帰ってきて、深夜にこのコラムを書きながら、先週の福島県での300人の聴衆、つくづく、選挙区の住民だったら良かったのになあと思う。