悲願!!「つくばエキスプレス」(1) ~議員連盟のやってきた仕事
2005-7-26
7月25日は、つくばエキスプレス(TX)建設促進議連の総会と現地視察。
議連の前会長(現・顧問)の、父・葉梨信行前代議士も、新線に乗り込む。感慨無量と思う。
ただ、この手の事業は、一旦計画が決まると、沿線住民には、「計画通りできて当たり前」という意識があり、関係者の苦労はなかなか見えにくい。
しかし、タダで鉄道は作れない(TXで1兆円超)。用地買収も手間取るのが通常。
実は、全国的な常識から言えば、延長60㎞のボリュームの都市鉄道が、審議会答申以来、20年という短期間で営業にこぎつけたことは、「奇跡」に近い。
私は、その間、葉梨信行が結成した「常磐新線建設促進」議連は、地味ではあるが、具体的でいい仕事をしてきたと思う。
政治家の中には、選挙パンフに「TX建設促進」を載せるだけという人もいるし、そんな人ほど声が大きかったりもする。でもそれではことは進まない。
このコラムでは、今までの議連の、具体的な活動とこれから果たすべき役割を書いてみたい。
そもそも、第2常磐線構想には、「東京と『つくば』を結ぶ。」という発想はなかった。常磐線の混雑緩和が原点。
私自身、毎日常磐線で国会に通勤しているが、初当選以来代議士引退まで常磐線通勤を通した葉梨信行も、日々の混雑を見かねて、常磐新線建設促進運動を始めたという。
それが昭和60年、運輸政策審議会の、「東京~守谷間の鉄道を昭和75(平成12)年までに建設」という答申につながる。
ただ、答申だけでは「絵に描いた餅」具体的アクションを起こす必要があった。
昭和60年の科学万博は、全国に「つくば」を印象づけた。茨城県も、つくば~東京の鉄道開業を悲願とするようになる。
このような要望も受け、昭和63年、自民党内の関係議員は、構想具体化のため、予算(調査費)要求と、法案作成の準備に入る。
まず法案だが、運輸・建設・自治の3省共同提案で、新しい鉄道と良質の宅地を一体的に整備するような事業を支援する仕組み(平成元年成立の、いわゆる「常磐新線法案」。現在まで、この法律が対象とする事業は、TXのみであり、TXのために作った法律と言うことができる。)。
この法案策定には、昭和62年から63年にかけ、葉梨信行・梶山静六と、茨城県選出の自治大臣が続いたことも追い風となった。
また、新線の調査費も、当時の竹内知事と、県選出自民党代議士とのスクラムで、復活折衝の上予算に計上された。
これが第1ステップ。
ところが当時はバブルの真っ最中、ルートも決まらないのに土地の思惑買いが進む。
資金の確保も含め、国会議員の応援団が必要だ。
そこで、議員連盟の立ち上げということになる。
これが、後に、無党派代表の千葉県の堂本暁子知事などと、良好な関係を築くことにつながってくる。
平成2年6月19日、超党派の、「常磐新線建設促進議員連盟」が設立され、葉梨信行衆議院議員(当時)が初代会長に就任する。
つくばまでの鉄路の一括開業を目指す茨城県にとって、県選出議員である葉梨が、議連の会長を引き受けたことは、客観的に見て、大きなプラスだった。
これが第3ステップ。
議員50人の声を背景にした議連の初めての仕事は、翌年にも新会社を発足させるための、国のバックアップ確保。
そうしないと、新会社(第3セクター)の出資者となるはずの1都3県も2の足を踏んでしまう。
その年の暮れには、議連の運動のかいあり、いわゆる「鉄道基金」を創設、平成3年度の予算の中で、新たに作られる新会社に対し、国が、「無利子」で、3200億円(建設費の約4割)を融資する制度を認めてもらう。
そして、翌年やっと新会社が発足。
これが第4ステップ。
とかく大規模プロジェクトについては、「運動」、「陳情」だけに終始することも多いが、本気でその事業を実現させるためには、やはり、お金の面、法制面、事業主体設立の面等々を、きっちり詰めていくことが必要だ。
そして、その後も、用地買収の問題など、まだまだ山あり谷あり。
次回コラムでは、その後の開業までの物語と、このような苦労を踏まえた私の決意を述べることとしよう。