「ハト派からの改憲論」序説

2004-7-13

憲法問題については、これまでもいろいろな発言を行ってきましたが、去る7月13日号の(財)青少年交友協会の雑誌「野外文化」に、私の主張を寄稿しましたので、抄録いたします。

「ハト派からの改憲論」序説

従来、憲法論争には、「タカ派=改憲論」、「ハト派=護憲論」の色分けがあり、これは、現在も変わっていない。

ただ、戦後教育世代である私自身は、最近、私達が教わったハト派的平和主義の実践のためにも、「現行憲法の存在は、極めて有害かつ危険」との思いを強くしている。

すなわち、今から十年前の平成六年、政権党となった村山社会党は、それまでの頑固な自衛隊違憲主張を一転させ、「自衛隊合憲」を鮮明にする。

当時私は、在インドネシア日本国大使館員として、国際テロの仕事に携わっていたが、カウンターパートであった任国の軍人から、「解釈が自由自在な日本国憲法は、何でもできるから怖い」と大いに揶揄されたことを覚えている。

この議論の中で私は、「解釈が自由自在」で法的に不安定な憲法は、我々が「平和憲法」と思い込んでいても、外国からは単に不気味なだけではという印象を持つようになっていった。

さて、この不気味さに加え、今や殆どの政党が自衛隊を「九条二項(戦力不保持)」のらち外の存在で合憲としている。

となると、自衛隊の活動の歯止めは、「九条一項(戦争放棄)」に求めるしかない。そして、私達は、一項は「戦争放棄を定めた画期的なもの」と教えられ安心してきた。しかし本当にそうだろうか。

実は、戦前の帝国陸海軍にも、「締約国は、国際紛争解決のため戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段として戦争を放棄する」(パリ不戦条約)という国際約束の歯止めがかかっていた。だから政府も、「中国進出は自衛権行使、紛争解決の手段でも戦争でもない(日中「戦争」は、あくまで「満州事変」や「日支事変」)。」と強弁してきた。

このような歴史に立脚するとき、戦前は条約にあった歯止めを、戦後は憲法に格上げしたというだけで、私達は、「唯一の平和憲法」を持っていると、世界に胸を張ることができるのだろうか。

また、自衛隊を一応合憲とする「護憲平和主義者」達は、自衛隊の任務や活動について、憲法を改正して具体的制約を課すことを忌避し、その結果、時の政府の判断で何でもできるようにしておくことが、本当の平和主義であると、真面目に考えているのだろうか。

私は、ポスト冷戦の今の時代こそ、世界の各々の文明が相互に理解、尊敬し合い、「文明の衝突」を回避する知恵が必要と思う。
決して独りよがりであってはならない。

そして、現在の我が国の「護憲論」は、残念ながら独りよがりの色彩が強く、諸外国・他の諸文明にも理解可能な平和主義を宣言すべきという視点が欠けているように思えてならない。

私が今、国会・自民党内で、敢えて、「ハト派からの改憲論」を唱えている所以もここにある。